21時50分
スマホのアラームが鳴った。
家の中は静まり返っていた。妻も娘ももう寝ていた。
航は出来るだけ音を立てないように顔を洗い、歯を磨き、髪を整えた。
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22時45分
今日の勤務は、電車大好き3年目の21歳・掛川さんと、総務から異動になった58歳・米澤さんが一緒だった。
米澤さんが仮眠に入り、掛川さんと二人になった。
「このレポートの作り方、もう教わりましたか?」
掛川さんが航に聞いて来た。
「はい、それは浅間さんに教えていただきました」
そう答えた航に掛川さんは言った。
「ああ、浅間さんに教わったなら安心ですよ」
「浅間さん、良い人ですよね」
「ええ。氷川さん、聖さんはわかります?」
「はい。ほとんど話したことはありませんけど。浅間さんの彼女さんですよね?」
「そうですそうです。僕、あの二人みたいになりたいんです」
航は「彼女はいるんですか?」と聞こうとしたが、すんでのところで違う言い方に変えた。
「掛川さん、まだお若いけど結婚とか考えているんですか?」
掛川さんは恥ずかしそうに言った
「はい。早く結婚したいです。
でも、僕みたいに趣味が電車とか読書とかだと…あまり女性との接点がありません」
航は的確な分析が出来ていると思いつつ言った。
「でもまだ21歳でしょう。
僕が21歳の頃なんて、とても結婚したいなんて思わなかったですよ。
なんというか、結婚したいと言えるのは立派だと思いますよ。
それに僕は入れ替わりなんで詳しくわかりませんけど、昼間の勤務に若い女性、結構いるじゃないですか?」
掛川さんは髪を撫でながら恥ずかしそうに言った。
「いやー、この間も河村ちゃんに…あ、河村ちゃんって僕の1年後輩なんですけど…彼女に電車の写真見せたら引かれちゃって…
あ、僕、写真も撮るんですけど。カメラもお金かかるんですよー。ほら駅前に大きな家電量販店あるじゃないですか?よく立ち寄ってます。ポイントカードなんて5万ポイント超えてますよ。
で、この間は河村ちゃんに…」
掛川さんは堰を切ったように話し始めた。
(わかりやすいな。河村ちゃんって子が好きなのか)
「さっき読書っておっしゃいましたけど、何かオススメの本ってありますか?僕も読書は好きなんで」
「あ、そうなんですね」
掛川さんはそう言うと、嬉しそうな顔をした。そして、すぐに自分のバッグを開け何かを取り出した。
「今は通勤中にこれを読んでいます」
それは若手起業家の書いた成功法則の本だった。
それを見た航は言った。
「自己啓発本ですか?」
「はい。最近は自己啓発の本ばかり読んでいます。今のうちから自己研鑽しておくことは大事かと思いまして」
航は意外に思うと同時に、大したもんだ…と思った。
「いやぁ、僕が掛川さんの年代の頃、自己研鑽なんて言葉知らなかったと思うな。実際、自己啓発というジャンルの本があると知ったのも33〜34歳くらいの頃でしたよ」
すると今度は掛川さんが聞いてきた。
「氷川さんのオススメの本はありますか?」
「僕も色々読みましたけど…
実は自己啓発本には今はほとんど興味がなくて…
古典は若いうちに読んでおけば良かったと後悔していますね。
そうだな…個人的にはアドラー心理学と古事記は外せないと思いますね」
「ああ、アドラー。聞いたことあります。まだ読んだことないけど。ありがとうございます。古事記は…歴史ですね?」
そして、続けて言った。
「あ、もうこんな時間。氷川さん、先に休んでください。戻りは4時でお願いします」