陽は五十嵐さんを前にして、すっかり勢いを失ってしまった。
陽は五十嵐さんのことが好きだったし、これ以上負担をかけたくなかった。
「まぁ聖とのこともあるんで。給料上げて欲しいです。今のままじゃ…不安しかありません」
陽はこんなこと五十嵐さんに言っても仕方ないと思っていた。そして、五十嵐さんは申し訳なさそうな目で、黙って頷きながら陽を見ていた。
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16時10分
陽は勤務に入っていたが、心ここに在らずたった。
陽は聖と結婚したかった。子供も欲しかった。けれど、今のまま結婚しても聖は幸せだろうか?もし子供が生まれた場合、その子の人生はどうなるだろう?
日本にもかつては高度成長期なんてものがあったらしい。バブルなんて時代もあったらしい。その時代を生きた人が、こんな暗い気持ちになっただろうか?
「不公平だ…」
陽は誰にも聞こえないような声で呟いた。
生まれる時代が悪かった。日本はこの先どんどん尻すぼみになっていくだろう。どうせならもっと良い時代に生まれたかった。
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23時10分
今日の夜勤は陽と米澤さんだった。
米澤さんは58歳。勤続36年の大先輩だ。
「ようちゃん、ごめん。チェックインの時に宿泊客のデータを間違えて入力しちゃったんだけど、どうやって直すんだっけ?」
実は米澤さんは、入社してからずっと総務課で働いていた。ところが2ヶ月前、突然、宿泊課に異動になりフロント勤務になった。
陽はすぐに米澤さんの隣に行き、一緒にパソコンの画面を除き、操作を手伝った。
「米澤さん、わからなくなったら何度でも聞いてくださいね」
「ありがとう。この歳になるとなかなか覚えられなくて。覚えてもすぐ忘れちゃうし」
米澤さんは必死にメモを取っていた。